終映まぎわの劇場鑑賞に新宿バルト9へ出かける。

夜のプログラムだったこともあわせ、せいぜい20名の入り。なぜだか女性連れが多い。そういうストーリーだったっけ?
70年代半ばにバンコクに赴任した「好青年」こと東垣内豊(西島秀俊)。お見合いで婚約した令嬢、尋末光子(石田ゆり子)を日本に残し、新興格安航空会社であるイ−スタン・エアラインズの営業広報担当として、未開市場であるバンコクに赴任する。
携帯電話やパソコンはおろか、まだ真夏の事務所にエアコンが入っていないころの話だ。人々の娯楽も草野球にビアホールに、と前時代的なものばかりだ。
「好青年」豊は、こうした環境の中、会社の市場開拓の付託に応えて実績を上げていくのだが、光子との結婚が4カ月ほど前に迫ったある日、幼馴染の会社の冴えない同僚が付きあい始めたというあこがれの謎の美女、間中沓子(中山美穂)に酒場で出あう。彼女のもつアンニュイで放蕩な部分に、結婚前の豊は遊び心から、お見合い相手の令嬢である光子にはない惹かれるものを感じる。

沓子は、かつてさる金持ちの「彼女」だったのだが、若い西洋女に乗り換えられ、多額の手切れ金で捨てられたという過去があった。バンコク有数の超一流ホテルであるオリエンタルホテルのオーサーズ・ラウンジ。そのサマセット・モーム・スイートに定住しながら、あたかも自分を裏切った男たちすべてに復讐するかの様に、男を漁る生活をしていたのだ。ホテルの従業員は、沓子の連れを、誰であれホテル内では「ミスター・マナカ」と呼ぶのである。
沓子にとって若くエネルギーと野心にあふれ、自分に興味は抱いても、他の男達の様に自分に簡単になびこうとしない「好青年」豊は、新鮮な存在だったのだろう。相手に結婚が迫っているという事情も手伝ってか、彼女は自から豊の狭く汚い借部屋を訪れ、ものも言わず裸になり、情事をもつのだ。


それ以来、ふたりの関係は4カ月におよび、豊の私生活は日々に乱れ、勤務評価にまで響きかねない状況になる。東京で結婚式を待つ光子からの連絡も、なかなか容易に取れなくなる。豊は、沓子とのただれた関係に踏ん切りを付けようと何度も試みるのだが、そのたびに沓子の持つ魔力に負けて関係はずるずると続くのだ。それまで数多くの男をもて遊んでいたはずの沓子も、豊から邪険にされるほどに、相手にのめりこんでいく。
そんなある日、ホテルの部屋に唐突に、日本で待っているはずの光子が現れる。心乱れる沓子を傍目に、光子は正妻のいいなずけである立場から、丁寧で上品な物腰ながら妥協や容赦のない要求を沓子に求める。来週の月曜までに消えてください、と。

そんなことは露知らぬ豊は、沓子と喧嘩別れ同然で、沓子がニューヨークに去るところをバンコク空港で見送るのだ。寸前まで平然と装っていたが、彼女の姿が見えなくなったとたんに、涙がとめどなく流れる。と、そこに光子が何食わぬ顔で現れ、「あなた何を泣いていらっしゃるの」と、これまでの事はおくびにも出さず、彼を抱きしめるのだ。
こうして日々は流れ25年の歳月が過ぎる。それ以来、バンコクへの訪問はなく、豊は航空会社の副社長にのぼりつめている。年老いた妻、光子とふたりの息子との家族。高級マンションに住む身分だが、かつての表情の輝きはなく、あたかも魂の死んだ人間の様だ。
そんなある日、タイ航空との業務提携のプロジェクトを指揮することになる。25年振りに訪れるバンコク。宿泊先はいわく付きのオリエンタルホテルだ。要人との面談を終え、ホテルにチェックインする豊に接近する影が。なんと沓子が、ホテルの従業員になってVIPマネジャーとして勤めていたのだ。ようこそ、お待ちしておりました。と豊をあのオーサーズラウンジのサマセットモーム・スイートに案内する。この短い再開は二人の心を昔に戻し、ふたりは今になっても本当の愛情は、あの時のふたりの間にしかなかった、と強く信じる様になる。
業務が終わって日本に帰国した豊。アングラロックのボーカリストになって社会からドロップアウトした長男が、人生の夢を追いかけている姿を改めて目の当たりにすると、突然、その後就任していた社長職を辞職すると、光子を残したままバンコクに向かう。沓子と人生をやり直そう。ところが沓子は不治の病いに冒されており、面会もままならない。死を寸前にして、豊との最後の散歩に出るために、病床を離れ、化粧をする沓子。ふたりの短くもはかない再会の直後に、沓子は誰に知らせることもなく、独りで世を去り、豊が訪れたときには、密葬も終わり、火葬された灰はすでに川に流された後だった。
悲恋のものがたりである。豊の人生っていったい何だったの、とむなしさがこみ上げるのはどうしようもない。25年間、すべてを胸にしまいこんで、家族のため夫のために尽くしてきた光子の立場はどうなるのだろう。これじゃあ誰も浮かばれない。
サヨナライツカ、という題名は、光子が結婚前に独りで書いている詩のタイトルだ。その中で、光子はこう書く。「人間は死ぬ時に、愛された事を思い出す人と、愛したことを思い出す人に分かれる。」

「あなたはどっち?」と。
最初にあった頃の沓子は「愛されて死ぬ」と即座に答えた。光子は「愛したことを思い出す」のが自分の人生だと言い切る。愛の本質を問う場面だ。にもかかわらず、結局、誰の愛情も満たされることなく、物語は終わるのだ。
中山美穂の起用に疑問の声が大きい様だ。原作者の辻仁成が再婚した相手であり、パリに移住して12年ぶりの映画への復帰、と大いに話題になったのに、大画面に残酷に映し出される美貌の衰えは39才にしてはあまりにひどい、というものだ。私は中山美穂のファンではないので美貌の衰えはともかく、そもそも破天荒な官能的な南国の美女、のイメージは彼女にはもとから乏しい。もっと知性的な透明なイメージを彼女は売りにしていたはずだ。
なんだかミスマッチ。身内の人選なんかでキャスティングしていいのか。だいたい濡れ場が何度か出てくるが、妖艶さもムラムラさも感じないじゃないか。それに比べて石田ゆり子の演技は堂々として存在感がある。これじゃあ太刀打ちできない。
そう思ってみていたら、いやいや、真夏の夜の女王だったはずの沓子は、この映画では、昼の正統派である光子に白昼迫られ手も足も出ず、さらには、豊と別れてニューヨークに行ってからも、結局豊が忘れられずに誰とも恋をせず、バンコクに戻りひょっとして豊に再会できるなら、と25年間、そのホテルに勤めて待ち続けていた、というおしんもびっくりの純愛のヒロインに変身していくのだ。
なあるほど。この落差を描くために、プリプリ・イケイケの女優を選ばず、敢えて知的な中山美穂、とのキャストだったのか。そう読み替えてみれば、物語の流れもわからなくはない。人生に翻弄されて世を去っていく沓子を「悲劇のヒロイン」とみなせれば、確かに感情移入が可能なのかもしれない。
「愛される」ことしか念頭になかった沓子が、豊との出会いで「愛する」ことに目覚め、残りの人生の25年間を会えない過去の男を愛しつつ待つことに捧げていたという展開がそれを裏打ちするのだろう。
しかしながら、この作品のわかりにくさは、原作が男の視線で作られていることなのだ。それを映画の中では、豊の目線や心理には直接入り込まずに、あえて距離を置いている。しかも前半に起きているできごとはいくら若い日のバンコクの話とはいえ、あまりにはちゃめちゃで、観客はキャストの誰に感情を置き換えていいのかちっともわからない。沓子の25年間だって、ほとんど説明をふっとばしてしまっている。
しかも、原作にない(らしい)シーンがあまりにふんだんにあるので、同じ作品とは思えないらしい。(光子と沓子のバンコクでの対決、息子達のシーン、ホテルでの沓子の看病、沓子が死んだ直後のシーン、などは原作にはまったくなかったとのこと) 短い挿話がいくつも加わり、話がますます混乱してくるのだ。
挿入されたシーンの多くは、正妻であり家族のシンボルである光子やその子供たちのシーンだ。ひょっとすると、監督の価値観では、『家族』と『愛人』というふたつの価値のはざまに立たされた男の心理的葛藤、という儒教的なアプローチがないと、この話自体を表現できなかったのではあるまいか。
だから、唐突に社長を辞め家族を捨ててバンコクに飛び立つ、などという非現実的なシナリオに変ってしまったのだろう。
若い純愛(=手に入らない相手を求める心の襞)を切り取る名手であるこの韓国人監督には、倒錯した大人の男女のどろどろした二股愛の思い出を描くには荷が重すぎた、と評するのは酷だろうか。
ずいぶん長く感じられた本作の上映が終わり、そそくさとシアターを去ろうとした時に、クロージングの女性歌手の声が足を止めさせた。
最近はやりのアルファベット表記の女性歌手か何かかと思いながらも、その声の伸びに聞き惚れてエンドロールを最後まで辛抱強く探していると、これがなんと我が中島美嘉のAlwaysという新曲だった。


[ PV] 中島美嘉:ALWAYS
[ 2010.01.22 MS] 中島美嘉:ALWAYSいやあ最後の最後にすべてがむくわれました。これで★1つ追加。
1800円のもとを取り返した気分で劇場を後にしたのであった。